2008年11月17日月曜日

京の七口(その2)




京の七口の一つに京都から西へ向かう「丹波口」がある。かっては朱雀大路の千本通りと七条通りの交差点に「七条口」とも言われていて、古記には「七条通りを西へ、朱雀村、川勝寺村、下桂、樫木原、沓掛、老ノ坂へかかり丹波亀山へ五里」と書かれている。



源頼光(平安期の武将)の鬼退治で有名な大江山はこの街道の「大枝」で、酒顚童子は老ノ坂トンネル南口の「首塚大明神」に祀られているという。



その「丹波口」は、現在「JR丹波口」駅としてその名を留めていて、駅の東には江戸の吉原とならぶ代表的な遊郭「島原」がある。寛永17年に六条三筋町から移転してきたが、その移転の様が島原の乱(長崎県)のようだといわれてこの名がついたという。当時、お茶屋86軒、芸妓約50人がいた。遊女をおいているのが置屋、遊女を呼んで遊ぶのが揚屋、置屋から揚屋へ行くのが太夫道中。いまは太夫町、揚屋町の町名が残る。現存する揚屋は「角屋」(重文)で間口約50m、表には千本格子がはまっている。青貝をちりばめた「青貝の間」が有名。置屋の最古は「輪違屋」で角屋に次いで古く、元禄年間の創業という。二階の「傘の間」「紅葉の間」は奇抜な意匠で有名。



「角屋」の北西に「東鴻臚館」という碑がある。「鴻臚館」とは平安期に朱雀大路(千本通り)を挟んで東西に建てられた外国使節を歓迎する施設であった。平安京では主に渤海使(旧満州・北朝鮮方面にあった国)を迎賓していたが926年渤海国が遼(内モンゴルを中心とした中国北辺を支配した王朝)によって滅ぼされ鎌倉時代には消失したようである。



源氏物語第一帖「桐壺」には、鴻臚館に滞在中の高麗人を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代の歌人・与謝蕪村は晩年を京都で過ごし、角屋の屏風や襖絵(重文)を書いたり俳句を教えたりし、「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。




1 件のコメント:

nabe さんのコメント...

ブログ開設おめでとうございます。
とうとうというか、いよいよといいますか…
京都検定になりそうな数々
勉強をさせて頂きます。
でも、のんびりとボチボチと…
お願いします。
-kenya-