2009年6月11日木曜日

京都逍遥(その3)

  今日は東山地区の一画を逍遥した。
***六道珍皇寺***
東山区東大路通り松原西に「六道珍皇寺」が
ある。お盆の精霊迎えで有名で、鐘楼は
「迎え鐘」として死者をこの世に呼び返すと
いわれ、鐘は「突く」のではなく「引く」ので
ある。

 六道珍皇寺        閻魔庁への井戸
平安期の参議で学者・歌人でもあった小野篁は、
昼間は朝廷に仕え、夜は閻魔庁に勤めたと
いわれ、この六道珍皇寺の井戸から「あの世」
へ通ったそうである。

   小野篁像
「あの世」からの還り口は、なぜか嵐山の
嵯峨清涼寺(釈迦堂)の「生の六道」と
されている。

小野篁・紫式部墓所
百人一首の「わだの原 八十島かけて
漕ぎ出でぬと 人には告げよ海女の
釣り船」は小野篁の代表歌であり、
また小野道風は孫にあたる。
その墓は北区北大路堀川下ルに
紫式部と並んで建てられてある。

***幽霊「子育て飴」***

六道珍皇寺の西に「幽霊・子育て飴」を売る
店がある。
それは慶長4年ころの話である。
夜毎にこの店に飴を買いに来る女がいた。
不思議に思った店主がその女の後をつけて
ゆくとそこは墓場だった。
赤子の泣き声がするので墓を掘ってみると
生きている赤ん坊がいた。
女は赤ん坊のために毎夜飴を買いにきて
いたのだが、赤ん坊が助けられてからは
来なくなったという。
幽霊になっても子供を大事に育てるている
場所から「子を大事」=「コオダイジ」=高台
寺 という落語もあるそうだ。

***六波羅密寺***
幽霊・子育て飴の店の南に「六波羅密寺」が
ある。
951(天暦5)年 、京に悪疫が流行ったとき、
空也上人が小梅干と昆布を入れた茶を仏前
に捧げ、その茶(皇服茶)を手車に載せて
病人に呑ませて病魔を退散させたという。
その後(963年)、鴨川で大供養を行い
六原に西光寺を建て、後にその寺が
改名して現在の六波羅密寺といわれ
ている。
六波羅密とは「布施、持戒、精進、般若・・・」
など六つの行のことをいう。

  六波羅密寺        平清盛公塚
また「六波羅」といえば平家である。
平清盛の父忠盛は伊勢から兵を率いて上洛
したとき、ここを宿舎し、清盛は邸宅を築き、
以後、一門の邸宅が軒を並べたので今も
町名として残っている。
「門脇(カドワキ)町」は六波羅邸の門の脇に
あった平教盛邸があった跡とされ、「池殿町」
は清盛の継母池禅尼の邸宅跡で息子の頼盛
(池殿と呼ばれていた)に引き継がれた。
「三盛町」は、清盛・頼盛・経盛の三人にちなん
で名付けられました。
 
 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す
 おごれる人も久しからず 只春の夜の夢の
 ごとし たけき者も遂には滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ
と「平家物語」の冒頭に書かれているように、
平家は清盛の死後、屋島の合戦、壇ノ浦の
戦い等で、「盛者必衰」を演じて滅んで
いった・・・

                銭洗い弁財天

***建仁寺***
平安時代の仏教と言えば、天台宗の宗祖・
最澄が元祖ともいうべきだろう。
その最澄が開いた比叡山は「四宗兼学」の
道場であった。即ち「円(法華経)、戒(戒律)、
禅、密(密教)」を教える学校と考えればよく、
ここから法然や栄西、親鸞や道元など
そうそうたる名僧が出ている。
六波羅密寺を北へ行くと京都で最初の
禅寺・臨済宗の「建仁寺に着く。

   建仁寺三門        勅使門
開山は比叡山で学び、わが国に臨済宗を
伝えた栄西である。
栄西といえば「喫茶養生記」を書いたことで
有名だが、2巻に書かれた下巻には糖尿病
や中風、脚気、瘡などに効果ありと桑の
効用も説かれている。

     茶の碑          桑の碑
勅使門は平重盛邸から移築したとも伝え
られており、柱に戦乱時の矢傷がある
ところから「矢の根門」や「矢立門」と
呼ばれている。
ここの俵屋宗達の「風神雷神図」は
あまりにも有名。

***崇徳天皇御廟***
都踊りの祇園甲部歌舞練場の裏に
小さな官有地がある。
「崇徳天皇御廟」という石碑が建っている。
 
平安末期、院政を敷く鳥羽法皇のもとで
天皇になったが、すぐに近衛天皇と
交替させられ、更に次は後白河天皇が
即位し、上皇のままロボットにされて
しまった。
保元元年(1156)7月、崇徳上皇派と
後白河天皇派との間で保元の乱が
勃発した。
戦いに敗れた崇徳帝は四国・讃岐に
流され、都を懐かしみ京の安楽寿院に
納めようと「五部大乗記」を書写して
都に送ったが、突っ返されのを帝は
憤怒で舌を噛み「願わくば大魔王に
なり天下を脳乱せん・・・」と血書されて
波乱の一生を終えられた。
その後、京都に悪疫が流行り「これは
崇徳天皇のタタリだ」と祀った廟がこれ。
更に崇徳帝を偲んで明治天皇が
堀川今出川に白峰神社を建てられたが、
それは700年後の慰霊であった。

 **写真はクリックで拡大します**