2008年11月24日月曜日

京の七口(その3)




「太秦キネマ塾」でビデオ制作を教えている男子中学生が選んだテーマは「京の七口」。天正19(1591)年、豊臣秀吉によって京の都市改造のひとつとして洛中を「土塁」で囲む「御土居」が築かれた。それは賀茂川の洪水対策であり、また京を護る軍事的防衛や洛中洛外を明確に区分する役割でもあった。その「御土居」で囲まれた京の都への出入り口が「京の七口」である。
一般に「七口」と言われるが、鞍馬街道への出入り口は「鞍馬口」であり現在も鞍馬口町の町名が残っている。八瀬大原から若狭街道へ向かう「大原口」、北白川から山中越えで琵琶湖への「荒神口」「今道の下口」、東海道への「三条口」「粟田口」、伏見街道への「五条口」「伏見口」、竹田街道へ出る「竹田口」、鳥羽・淀を経て西国街道への「東寺口」「鳥羽口」、山陰街道がのびる「丹波口」「七条口」、京見峠を越え周山・若狭へ行く「長坂口」「清蔵口」と時代によって呼び名や場所も変化した。

御土居は高さ3m、基底部はほぼ9mで総延長は約23km。現在で言えば東は寺町通り、西は凡そ西大路沿い、北は鷹峰から上賀茂あたり、南は九条通りで京の市街をすっぽり囲む広大なものであった。

現在はほぼ消滅しその名残の町名は随所に残っていて、現物は「北区平野鳥居前町」や「北区大宮土居町」など数箇所にあり、尋ね歩くのも一興かもしれない。

2008年11月17日月曜日

京の七口(その2)




京の七口の一つに京都から西へ向かう「丹波口」がある。かっては朱雀大路の千本通りと七条通りの交差点に「七条口」とも言われていて、古記には「七条通りを西へ、朱雀村、川勝寺村、下桂、樫木原、沓掛、老ノ坂へかかり丹波亀山へ五里」と書かれている。



源頼光(平安期の武将)の鬼退治で有名な大江山はこの街道の「大枝」で、酒顚童子は老ノ坂トンネル南口の「首塚大明神」に祀られているという。



その「丹波口」は、現在「JR丹波口」駅としてその名を留めていて、駅の東には江戸の吉原とならぶ代表的な遊郭「島原」がある。寛永17年に六条三筋町から移転してきたが、その移転の様が島原の乱(長崎県)のようだといわれてこの名がついたという。当時、お茶屋86軒、芸妓約50人がいた。遊女をおいているのが置屋、遊女を呼んで遊ぶのが揚屋、置屋から揚屋へ行くのが太夫道中。いまは太夫町、揚屋町の町名が残る。現存する揚屋は「角屋」(重文)で間口約50m、表には千本格子がはまっている。青貝をちりばめた「青貝の間」が有名。置屋の最古は「輪違屋」で角屋に次いで古く、元禄年間の創業という。二階の「傘の間」「紅葉の間」は奇抜な意匠で有名。



「角屋」の北西に「東鴻臚館」という碑がある。「鴻臚館」とは平安期に朱雀大路(千本通り)を挟んで東西に建てられた外国使節を歓迎する施設であった。平安京では主に渤海使(旧満州・北朝鮮方面にあった国)を迎賓していたが926年渤海国が遼(内モンゴルを中心とした中国北辺を支配した王朝)によって滅ぼされ鎌倉時代には消失したようである。



源氏物語第一帖「桐壺」には、鴻臚館に滞在中の高麗人を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代の歌人・与謝蕪村は晩年を京都で過ごし、角屋の屏風や襖絵(重文)を書いたり俳句を教えたりし、「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。




2008年11月16日日曜日

京の七口(その1)







                    
太秦キネマ塾でビデオ制作を教えており、中学2年生男子を担当している。


中学生が選んだテーマは「京の七口」。 豊臣秀吉が京都周辺に御土居を築き、その出入り口として「七口」がひらかれた。


今日は「東寺口」(京都の南方面口)を車で撮りに出かけた。平安京の北「大極殿」から南への道「朱雀大路」は羅城門で最南端となる。 京都市九条通りの新千本の東北に「羅城門」の石碑が立ててある。撮影はここ「羅城門」から始まった。石碑のみの「羅城門」や「東寺」を撮り新千本通りを西高瀬川沿いに南へ車を走らせると石仏の「行住院」があり、更に進むと「恋塚」のある「浄禅寺」に着く。平家物語で袈裟御前が遠藤武者盛遠に横恋慕され、その盛遠に殺されるが、無常を知った盛遠は文覚上人となる話がある。その袈裟の墓を「恋塚」とされている。更に南下を進めると小枝橋畔に「鳥羽伏見の戦跡」の碑があり、御土居のような「秋ノ山」には慶応4年徳川慶喜の幕軍と錦旗を奉ずる薩長軍とが激突した戦跡碑がある。南下から一転して「七口」のひとつ「五条橋口」を撮るべく五条通り河原町へ向かう。鴨川に架かる「五条大橋」は義経・弁慶で有名な橋で、今も両人の像が太刀を合わせている。午後も日が陰る4時ころに今日の撮影は終わった。