2009年12月12日土曜日

京都逍遥(その6)

「京都御苑」(その1)
今回は“京都御苑"(63万㎡・甲子園球場約16ケ分)の「碑」(いしぶみ)を中心
に歩い
てみた。
「京都御所 建礼門」


1.「石薬師御門」
  
 








   京都御苑には9つの門がある。
 
   その御
苑の北東に位置する御門である。
   今回は京都御苑の北から南下してみる。

2.「染殿井」"京都御苑名水の一つ” (京都迎賓館東)
   平安時代の摂政の藤原良房の屋敷「染殿第」があった場所。
   ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれている。
   






                            
                              梨木神社「染井」
  京都三名水の一つと言われる梨木神社の「染井」が京都御苑の東にあるが、
  御苑内の「染殿井」と同じ水脈と推測されている。

3.「祐ノ井」 (祐宮:さちのみや=明治天皇の幼名)










  明治天皇の産湯を使ったという井戸。   
  明治天皇の生母は権典侍・中山慶子で、その実家の旧中山家の遺構。


4.「桂宮邸跡」 (今出川御門・中山邸西)
   中が非公開なのは、今は職員宿舎のため。    
   ここは門のみで桂宮邸は明治になって二条城へ移築されたという。











5.「今出川御門」(同志社前)          6.「朔平門」










7.「近衛邸跡」と「近衛池」 (今出川御門南)
  平安時代以降、常に貴族の最高位にあった家柄で、多くの摂政や関白を
  
排出した。 
  現在はこの庭園のみ残っており、邸宅にあった所に池が残っ
ているのみ。 
  枝垂れ桜の池は毎年見事に咲いて大勢の見
物人を集める。










8.「猿ケ辻」 (御所の東北角)
  京都御所の東北は鬼門とされて、築地塀の角が欠けて造られており、
  日吉
山王社のお使いの猿を祀ってある。 
  この猿は毎夜抜け出して人にいたずら
をするので金網に封じ込め
  られたと伝わる。







  

  幕末の尊王攘夷派の姉小路公知が襲わ
  れ殺された「猿ケ辻の変」
で有名場所。
  犯人として捕らえられた薩摩藩士・田中
  新兵衛
は証拠品として出された刀で取り
  調べ中に自刃して果てたため
真相は
  不明のまま。  
  姉小路公知の墓は梨木神社東の
  清浄華院
にある。

9.「一条邸跡」
 (乾御門東)   

一条家は九条家の分かれで五摂家の
一つで
ある。 室町時代の一条兼良は
当代一流の学者であり、その息子・尋尊
は奈良興福寺の別当を勤め、見聞した
記録を書き残した「尋尊
大僧正記」は、
この時代を知る上で重要な資料
となっ
ている。


  明治天皇の皇后・昭憲皇太后は一条家の出身。
  
(各写真をクリックすれば拡大します)

10.「縣 井」(あがたい)“京都御苑三名水の一つ”
 もと一条家屋敷跡で、この縣井
 は
昭憲皇太后の産湯に使われ
 たと
言われており、古くから
 洛陽の名
水とされてきた。  
 昔、この井戸のそばに縣宮が
 あって、地方官吏の就職志願
 者は井
戸で身を清め、その宮
 に祈願してから参内したと言わ
 れている。

    周囲に咲く山吹は多くの詩に詠み込まれている。

11.「和宮生誕の地」(橋本家跡) (京都迎賓館西)
    孝明天皇の妹・皇女和宮親子内親王生誕の地と言われている。
    母が典侍・橋本経子でこの橋本家で14年間養育された。
         







  
   
幕末に公武合体を進めるため徳川14代将軍家茂に嫁ぎ、
   幕末の
動乱を生き、明治10年32歳で療養先の箱根で没した。
    墓は徳川家菩提寺の東京・増上寺にある。
          

12.「学習院跡」(御所 建春門前)









   弘化4年(1847)、孝明天皇が40才以下の公家をはじめ
   御所勤務の役人とその子弟に学問を教えるための学習
   院跡。
       
   その名前は東京の学習院に引き継がれている。


13.「有栖川宮邸跡
(建礼門前)    
 世襲親王家の一つ。
 皇女和宮の婚約者として、また戊辰戦
 争時の東征大総督と
して有名な有栖川
 熾仁親王や同家の登美宮吉子女王は
 徳川斉昭に嫁ぎ慶喜を生んでいる。

 熾仁親王は明治10年の西南戦争では
 征討総督となり、同27年の日清戦争で
 は参謀総長を務めた。
 

14.「清水谷家の椋」
(蛤御門東)
   
公家・清水谷家の屋敷跡で大きな椋が目立つ。









   蛤御門の変の時、長州藩士・来島又兵衛がこの木の場所で
   討ち死にした。
   
   樹齢300年といわれる椋は、御苑内でも数少ない大木と
   いえる。


      (各写真はクリックで拡大します)
                                              

2009年11月18日水曜日

京都逍遥 (その5)

「京の碑」(その1)
千年の都「京都」には多くの歴史遺産が存在するが、その中の「碑(いしぶみ)」を中心に辿ってみた。

1.牛若丸誕生井碑(北区紫竹牛若町)   
  常盤御前が源義経(幼名「牛若丸」)をこの地で生んだと伝わる。
       
                                源義経産湯の遺跡碑
      誕生井碑を東へ行くと牛若丸の誕生の際に使った由来の石碑がある。

2.紫式部と小野篁墓所 (堀川通紫明西入る)   
  
この両者の生存時期には120年の開きがあるが、何故同じ場所なのか?   
  一説には室町時代の「河海抄」に「紫式部の墓所 雲林院の白
豪院の南に
  あり、小野篁の墓の西なり」と記されていることから祀られているという 

  
               紫式部墓所            小野篁墓所

3.日本電池発祥の地 (新町通今出川上る=同志社新町校舎)   
  
ジーエス・ユアサ・バッテリーは旧日本電池と旧湯浅電池が合併した会社で、
  
その日本電池の発祥の工場がこの場所。
  
  日本電池は島津製作所の元電池部門が独立した会社で、島津製作所の   
  創業者:
島津源蔵が日本で初めて蓄電池を製造した。日本電池のバッテ  
  リーの商標「GS」
は島津源蔵の頭文字から採られている。

.幕末の薩摩藩関連  (烏丸今出川東)
  
 薩摩藩邸跡(同志社大学西門)





[各写真はクリックで拡大します]



幕末から明治への動乱期に蛤御門・
鳥羽伏見の戦いで犠牲になった
薩摩藩士7
2名の墓所がる。
 
 (上京区相国寺東通り)





5.長州藩士の墓
 (相国寺墓地) 




長州藩士墓地の隣に藤原定家・
足利義政・
藤若冲の三つの
墓が並んでい
る。



6.応仁の乱勃発地
(上京区鞍馬口東)
  室町時代の八代将軍・足利義政の応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」は、
  
東軍がこの上御霊神社に、西軍は今の西陣 地域に陣を構えて戦い、
  その
戦乱は10年間も続いた。   
  元は大名の畠山氏の内紛を将軍が調停に失敗したために始まった。

       

7.花の御所「室町第」 (足利将軍家御所)
  足利三代将軍義満が鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された
  花木を配置したと伝えられ「花の御所」といわれた将軍の邸宅である。
                 室町今出川東北角        大聖寺 (烏丸今出川上る)
  今出川通、烏丸通、上立売通、室町通に囲まれた広大なる地を有していた。   
  その遺跡の一部が「大聖寺」で、同志社大学寒梅館の南に現存する。

8.出町界隈 (河原町今出川付近)
  天正10年、明智光秀の謀反により本能寺で最後を遂げた織田信長は、長男
  
信忠らと一緒にこの阿弥陀寺へ葬られた。 
   
  阿弥陀寺を創建した清玉上人は、本能寺の変を聞き、知遇を得ていた
  信長
の遺骸をいち早く収め、当寺へ葬ったという。
戦国時代 山陰の大名
尼子家の
家臣山中鹿之介
が本満寺に葬ら
ている。
鹿之介が死んだのは
天正6年
上月城の戦いで、
毛利軍に敗れ
捕虜となり、
今の岡山県高梁市

謀殺された。
 
  その後に鳥取市に菩提
寺が作られているが、何故、京都に
  鹿之介
の墓があるのか? 
  ちなみに大阪の豪商・鴻池家は鹿之介の長男が商人になって築いた
  財閥
である。

  尾上松之助像 (出町・葵公園内)
          
明治から大正へかけての日本初の映画
スター。
 
京都千本座の座主牧野省三に見いだされて
映画
俳優となり、愛称「目玉の松ちゃん」と親し
まれ
、100本以上の作品に出演した。
 


河川美化啓発碑
(鴨川公園中州)




  鯖街道口(出町橋西詰)
     海のない京の都では、海の魚は珍重された。
             








  
  若狭・小浜から鯖街道を「新鮮な鯖」が人々に担がれて京・出町柳に
  到着した。  一振り塩の鯖は京都の名物「サバずし」となった。


  出町の道標 (寺町今出川東北角)









   大久保利通旧邸碑 (寺町今出川下る)

明治の元勲・大久保利通が慶応2年から  
4年まで住んだ邸宅跡。(石薬師通)
 
西郷隆盛らとともに倒幕を果たしたが、
 
後に西郷とな征韓論で袂を分かち、
 
西南戦争では彼を死に追いやった。
明治11年、東京紀尾井坂で暗殺
された。(享年49歳) 

(各写真はクリックで拡大します)