2009年4月28日火曜日

京都逍遥(その2)

***山科本願寺合戦***
現在、真宗本願寺は東と西に分派しているが
元々親鸞が設立した一つの宗派であった。
そして本願寺は京都・山科にあった。
文明18(1483)年、本願寺八世・蓮如が山科
本願寺を落成している。
その当時の規模は下の図(クリックで拡大)の
ようで、東西500m、南北1kmにわたる広大な
もので、城郭形式であったようだ
 
蓮如が75才に隠居所として建てたのが「山科
本願寺南殿」で200m四方の規模があったと
推定されている。
 
     (山科本願寺南殿跡・光照寺)
天文元(1532)年、日蓮宗徒と近江の六角定頼
の連合軍が山科本願寺を攻撃した。
山科本願寺合戦といわれる戦いで、本願寺坊
舎をはじめ寺内外の家屋一宇も残さず焼失した。
上記の南殿も失われ、後に再興されたもの。
蓮如上人の廟所も山科にある。
 
戦前まで蓮如の銅像があった台座が山科に
残っている。
背後の2階家よりも台座の方が高く、JR山科駅
から見えたと言われている。
 
       (山科本願寺土塁跡)
本願寺は京都から大阪へ移り石山本願寺
(現・大阪城)とした。
***天文法華の乱***
天文5(1536)年、比叡山僧兵と近江六角衆、
本願寺衆など5万とも7万とも言われる兵力が
洛中で急激に勢力を伸ばした法華宗の追い
落としを図って法華宗21本山全てを焼き打ち
にした洛中戦争がおこった。
下京の全部と上京の三分の一を焼失する
戦となった。
兵火の被害は応仁の乱(11年間続いた)を
上回り、天明の大火に匹敵したと云われる
大きな戦争であった。
 
 
        (西本願寺山科別院)
その後、石山本願寺は織田信長と10年の長きに
わたって戦う。
信長と和解した本願寺は大阪を立ち退き、
第11世顕如の没後、秀吉によって京都に
本願寺が再興されたが顕如の三男・准如が
引き継ぎ、これが大谷本廟西本願寺とされた。
 
 
      (東本願寺山科別院)
その後、家康によって長男の教如で真宗大谷派
東本願寺が興されて、今なお東西本願寺が存在
している。
      (写真はクリックで拡大します)