***山科本願寺合戦***
現在、真宗本願寺は東と西に分派しているが
元々親鸞が設立した一つの宗派であった。
そして本願寺は京都・山科にあった。
文明18(1483)年、本願寺八世・蓮如が山科
本願寺を落成している。
その当時の規模は下の図(クリックで拡大)の
ようで、東西500m、南北1kmにわたる広大な
もので、城郭形式であったようだ
蓮如が75才に隠居所として建てたのが「山科
本願寺南殿」で200m四方の規模があったと
推定されている。
(山科本願寺南殿跡・光照寺)
現在、真宗本願寺は東と西に分派しているが
元々親鸞が設立した一つの宗派であった。
そして本願寺は京都・山科にあった。
文明18(1483)年、本願寺八世・蓮如が山科
本願寺を落成している。
その当時の規模は下の図(クリックで拡大)の
ようで、東西500m、南北1kmにわたる広大な
もので、城郭形式であったようだ
蓮如が75才に隠居所として建てたのが「山科
本願寺南殿」で200m四方の規模があったと
推定されている。
(山科本願寺南殿跡・光照寺)
天文元(1532)年、日蓮宗徒と近江の六角定頼
の連合軍が山科本願寺を攻撃した。
山科本願寺合戦といわれる戦いで、本願寺坊
舎をはじめ寺内外の家屋一宇も残さず焼失した。
上記の南殿も失われ、後に再興されたもの。
蓮如上人の廟所も山科にある。
戦前まで蓮如の銅像があった台座が山科に
残っている。
背後の2階家よりも台座の方が高く、JR山科駅
から見えたと言われている。
(山科本願寺土塁跡)
本願寺は京都から大阪へ移り石山本願寺
(現・大阪城)とした。
***天文法華の乱***
天文5(1536)年、比叡山僧兵と近江六角衆、
本願寺衆など5万とも7万とも言われる兵力が
洛中で急激に勢力を伸ばした法華宗の追い
落としを図って法華宗21本山全てを焼き打ち
にした洛中戦争がおこった。
下京の全部と上京の三分の一を焼失する
戦となった。
兵火の被害は応仁の乱(11年間続いた)を
上回り、天明の大火に匹敵したと云われる
大きな戦争であった。
(西本願寺山科別院)
その後、石山本願寺は織田信長と10年の長きに
わたって戦う。
信長と和解した本願寺は大阪を立ち退き、
第11世顕如の没後、秀吉によって京都に
本願寺が再興されたが顕如の三男・准如が
引き継ぎ、これが大谷本廟西本願寺とされた。
(東本願寺山科別院)
その後、家康によって長男の教如で真宗大谷派
東本願寺が興されて、今なお東西本願寺が存在
している。
(写真はクリックで拡大します)